祈るしか無いこの状況に自分の無力さを感じる。 Category:Others Date:2011年03月14日 一人でも多くの人が助かりますように。いまはただそれだけしか考えられない。 Pray for Tohoku. 地震の時間、自分は渋谷の会社に居た。 揺れ始めは「いつもの地震か」なんて楽観視していたけど、30秒後には何も考えられなくなった。 何を思ったか机の下に隠れながら、液晶モニタを支えていた。 揺れが治まり、避難するときになって「4階で火災が発生しました」の自動アナウンスがビルに響いた。 事務所は5階。真下の階で火災というのだ。 幸いスプリンクラーの誤作動が原因で、実際に火災は起きていなかったようで、 避難に支障はなかったが、実際に火災が起きていたとしたらどうなるのだろうか。ぞっとする。 非常階段に指定されている階段への扉は開かなかった。 余震が続く中、建物内の階段を使って外へ出た。 歩道はビル内の人であふれていた。ビルの駐車場も。 ちょうどお昼ご飯に出ていた上長が戻ってきた。 足が震えていた。経験したことの無い地震だ。 幼い頃、千葉県東方沖地震も罹災したらしいが、当時2歳。覚えている訳も無い。 15時頃、事務所へ戻った。書類の入っていた棚が倒れ、サーバールームも一部のサーバーが動きながらも落下していた。忍者アナライズのテストサーバーだ。 自作サーバーのシャーシは落下の衝撃で曲がり、電源モジュールも外れていた。 サーバールームで復旧作業をしていたら再度大きな揺れが襲った。 15時半、業務を切り上げるよう指示が出た。 自宅は千葉市、距離にして55km。 同僚とともに、一回近くの公園に避難した。 ワンセグは見る気になれなかった。電池温存の考えも頭をよぎった。 余震が続いた。Twitterで情報収集を行うと、各地の被害状況が伝わってきた。 東北方面で大津波警報という情報が入った。 大津波警報?聞いたことが無い。 10m以上の津波が押し寄せるという。全く想像ができなかった。 小雨が降ってきた。屋根のあるところへ退避しようという話になった。 都内で働く義兄からメールで連絡が入った。「大丈夫?」と一言だけ。 「けがも何も無い。合流できる?」と返信したが、混雑の影響だろうか返信が来たのは日付が変わってからだった。 渋谷から青山へ向かおう。手持ちの電池で夜を明かす可能性が出てきた。 幸い、ハチ公口のビックカメラが開いていたのでエネループを購入。通信手段と電源は確保できた。 いつも人が多いが、渋谷駅前はさらに人であふれていた。 宮益坂を上っていても人が途切れない。 運転を再開した都バスでは、人がおしくらまんじゅう状態だった。 赤坂見附行きのバスは、歩くよりも遅い状態だった。赤坂見附は徒歩の方が早かったようだ。 さらに歩き、四ッ谷駅から総武・中央線沿線を歩き始めた。 四ッ谷駅は閉鎖されていた。ホームに止まっていた中央線快速電車は照明が落とされ、真っ暗だった。 陽が落ちた。幸い停電にならなかった都内。どこの道にも人と車があふれていた。 市ヶ谷駅をすぎ、飯田橋駅。 駅の改札付近にある、普段は交通情報や広告を流しているモニターにNHKが映されていた。 「JR東日本は、本日の運転を取りやめることを決定しました」 電車で家に帰ることは叶わなくなった。 少し休憩して再度歩き始めた。お茶の水の明治大学がホールを開放しているという情報を得た。 水道橋。さすがにおなかがすいたので、見つけた富士そばでよるご飯。 桜エビ天そば大盛り。最後の晩餐にならないように、とにかく生きる決意をした。 駅で再度NHKを見た。アナウンサーではなく、何かが映っていた。 津波の映像だった。簡単に水に流されていく家、車、がれき。 橋の上にトラックが居た。水が迫っていた。 それ以上見ていられなくなり、目をそらした。 感情は何も覚えていない。ただ、涙があふれそうだった。 さらに歩いている途中で水道管が破裂していた。水しぶきが上がるほどではなかったが、どんどん地面から水があふれていた。 お茶の水駅についた。駅の屋根が一部崩れていた。 トイレを借りることができたが、それ以外の人は全く入れないようになっていた。 明大に向かおうかと思ったが、もう一人の義兄が働いている秋葉原へ向かうことにした。 相変わらず、人があふれていた。 秋葉原駅は店舗が閉鎖され、みどりの窓口には風をしのぐ人があふれていた。 知っている人に会いたかった。 独りで居ることがこんなに不安になることだとは思わなかった。 Twitterでいろいろと情報を集めていると、 何回か行ったことがあるお店が席を無料開放しているという情報を得た。多少席も空いているらしい。 知っている人に会えるだろうか。それしか考えられなかった。 お店に着いたときには、満席に近くなっていた。 幸いにも席で座ることができた。オーナーもいらっしゃって、ほっとした。 席に座ってしばらくすると、身体がしびれてきた。 知らないうちに身体こわばっていた。やっと身体が安心できたのだろう。 臨時避難所は満員になってきた。 集まっている人同士が声を掛け合い話をして、暖かい空間になっていた。 人といるということが、こんなに暖かいことだとは思わなかった。 電源と無線LANをお店から貸していただけたため、少しでもお役に立てればと、会社から持ち出したネットブックで情報収集を始めた。 電源の心配も無くなったため、USBやエネループ、充電ケーブルを周りの人と共有した。 スマートフォンは電池の消費が激しい。案の定、充電が必要な携帯はほとんどがスマートフォンだった。 microUSBのケーブルを持っている人が少なかった。自分がいつも持っているケーブルが役に立った。 電源タップを偶然持っている人が居た。自分の周りとそのタップの周りが瞬く間に充電ステーションと化した。 21時頃、地下鉄や私鉄が復旧し始めたという情報を得た。 「帰れそうだから帰ってみる」 「気をつけてね!」 「けがしないように!」 かかる言葉は相手のことを心配する気持ちにあふれていた。 近くに住む人が差し入れをくれた。チョコレートやお菓子など。 甘いものを一口食べるだけで、ほっとしたような気持ちになった。 本当にみんなの優しさが暖かかった。 ここに避難できて自分は本当に幸せだと思った。 余震は相変わらず続く。みんな起きていたが、次第に疲れて眠っている人も増えた。 近くのコンビニへ買い出しにでた。ちょうど一服していたコンビニのスタッフと話ができた。 コンビニは食料がほとんどなく、お菓子がわずかに残るばかりだった。幸い、飲み物は残っていた。 そのスタッフは、埼玉の店舗で昼間働いた後、秋葉原の店舗へ移動する際に地震があったらしい。 「バイクでの移動だったからなんとか来られた。」 言葉には疲労がにじんでいた。 避難していた店内では、店にあったボードゲーム等で気を紛らわす人、疲れ果てて寝てしまった人、地震について話す人。幸いなことに、暖かい雰囲気に包まれていた。 午前5時頃、JRの運行計画が発表された。 午前7時頃から順次運行を再開する予定とのこと。 「これでやっと帰れる。」 そう思った自分は、やっと身体の力が抜けたのか、一気に睡魔に襲われた。 7時くらいから30分ほど寝て、8時頃お店を離れた。 秋葉原駅のホームは人でいっぱいだった。 総武線各駅電車も秋葉原に来た時点で人がいっぱいな状況だった。 2本見送り、やっと乗ることができた。本八幡で座ることもできた。 電車の表示は千葉行きだったが、気づいたら津田沼行きに変更されていた。 回送電車に変更され、津田沼でまた乗り換え。 また2本見送っての乗車。それでも行けるのは千葉。さらに10kmほど南下してやっと自宅だ。 千葉駅では駅入り口のガラスが割れていた。 駅前の大画面テレビでNHKが流されていた。人が集まっていた。 さらに進むとバスのロータリーに人が長く並んでいた。 自分は振替乗車票をもらい忘れた。また駅へ一回戻り、振替乗車票をもらい、地元行きのバスをさがす。 幸い、地元行きのバスは本数が多く、すぐに乗ることができた。 地元駅に着いたのは1時間後。電車なら10分の道のりだ。 14:46の地震発生から約23時間。13:35にやっと自宅へたどり着いた。 -- 独りは辛かった。一緒に集まれる人が居てよかった。人が居るだけで暖かかった。 寝られなかった。ベッドで寝られることがこんなに幸せなことだとは思わなかった。 東北地方で避難している方々の中には、未だ家族を見つけられない人も、まともに寝られない人も、ご飯を食べられない人もいる。 今自分には祈ることしかできない。 ひとりでも多くの人が救われますように。 一日も早く復興できますように。 笑顔にあふれる東北がよみがえりますように。 実は、友人の何人かがまだ連絡が取れていない。 無事でありますように。。。PR